HOME Page へ Tokyo 古田会 News No. 86 2002/07/28 日曜日 11:26 更新


 

T o k y o 古 田 会 N e w s

 

−古田武彦と古代史を研究する会−  No.86 Jul.2002

http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line

 

代  表:藤沢 徹

編集発行:事務局 〒167-0051  東京都杉並区荻窪1-4-15  高木 博 TEL/FAX 03-3398-3008

郵便振替口座 00110−1−93080   年会費 3千円

口座名義 古田武彦と古代史を研究する会

 

 

目 次

*閑中月記 第十九回               神籠石談話                                       古田武彦

 

*定期講演会報告

第一部               古典批判―古代史への新しい通路  飯岡由紀雄

第二部                (夜の部)                      藤沢 徹

 

*大国主考 第二回        意外な接点「志古・?・東?国」                 飯岡由紀雄

 

*対馬・壱岐の旅に参加して                                                                      堂前幸太郎

 

*対馬・佐護紀行                                                                                      鈴木 浩

 

*友好団体の会報から

 

教室便り

*改新の詔を読む会             福永晋三

*神功紀を読む会                                                       福永晋三

 

*お知らせ

*会長コーナー                                                        藤沢 徹

*事務局便り                                                         高木 博

*編集後記                                                        飯岡由紀雄

 

総会資料

               平成13年度活動報告

               平成14年度活動方針

               平成13年度会計報告

 

 

教室便り

改新の詔を読む会

立川市 福永晋三

天武の東征

持統天皇紀に入りました。途端に大問題に逢着しました。騒ぎの発端はまた、筆者であります。

 途中経過を少々、報告します。

 まず、持統天皇の和名です。

 

高天原広野姫たかまのはらひろのひめ天皇。

 

この高天原広野の地が、現代の福岡県北九州市小倉南区、平尾台にあります(平松さんの指摘)。持統の出自は九州ではないでしょうか。

 次に、天武天皇の和名です。

 

天渟中原瀛真人あまのぬはらおきのまひとの天皇。

 

 「瀛エイおき」字が注意を引く。まず、宗像大社の沖津宮(沖ノ島)の古い表記に「瀛おき」字が使われている。そして、天武の后の一人が、胸形君徳善の女尼子娘、高市皇子の母である。素直に見るなら、天武も九州の出自である。眼を転じて、中国の史料を見ると、『史記』に出てくる海中の三神山が、蓬莱、方丈、エイ洲とある。秦の始皇帝、、本名は?エイ政である。サンズイの有無の違いだけである。

 『隋書』?国伝に都の東方に秦王国があると云う。推定豊前・豊後辺りである。この地の秦はた氏の存在も気がかりだ。もっと気がかりなのは、天武の頃までは、宗像も豊国の範疇にあった可能性があることだ。最も気がかりが、大海人の名であろう。海岸部か島の出自を思わせる。

 以上、天武・持統の出自が九州らしいという議論で、持統紀は幕を開けたのです。大問題は開始直後に現れました。

 

天渟中原瀛真人あまのぬはらおきのまひとの天皇の元年の夏六月に、天渟中原瀛真人天皇に従ひて、難を東国に避けたまふ。旅いくさに鞠つげ衆もろひとを会つどへて、遂に与に謀を定む。廼ち分ちて敢死者たけきひと数万に命じて、諸の要害の地に置く。

 秋七月に、美濃の軍将等と大倭の傑豪と、共に大友皇子を誅して、首を伝へて不破宮に詣づ。

 明らかに、壬申の乱のことが書かれています。しかも、天武紀になかった記述です。

 

 問題一、「難を東国に避けたまふ」とは、九州に起きた難、すなわち白村江戦に敗れた結果起きた難、唐・新羅連合軍の九州上陸後の政治的混乱を恐れて、九州にとっての東国、すなわち近江朝(あるいは日本国)の簒奪を目指して、四国阿波の吉野川河口に大軍を移動させたことを指すのではないでしょうか。

 平松さんに次のような指摘があります。(新・古代学第6集)

 白鳳二年、吉野川の右岸、河口近くに天武天皇勅願道場妙照寺(現井戸寺)が開かれる。白鳳二年が西暦六六二年であるなら、天武は天智の即位以前に天皇を称していたことになる。(「四国の霊場は西古東新」)

 

 問題二、「旅」団「数万」は尋常の軍ではない。一六〇〇年の関が原の合戦の時でさえ、一方の軍勢が十万いくかいかないかであったことを思えば、七世紀の天武勢がいかに驚異的な軍勢であったかが知れよう。とても美濃・尾張の通念の「東国」の兵だけを指すとは思われませんが、どうでしょうか。通念の壬申の乱の舞台は狭すぎたのです。


 


大体、『隋書』?国伝における「東西五月行」の領域から、どうして急激に縮まるのでしょうか。

 

問題三、「美濃の軍将等」が、美濃・尾張の軍を指すなら、「大倭の傑豪」とはいかなる軍団を指すのでしょうか。先の問題と合わせると、こちら

こそが、主力軍のはずです。そして、何処からきた軍団なのでしょうか。

 

 解答は、もはや出ています。

《倭国(九州王朝)の正規軍と思われる大軍団が、倭国の起死回生を図って、東国の近江朝を簒奪した》

 これは、『新唐書』の一節、「日本は乃ち小国、倭の為に并せらる」という記述とあるいは一致するのではないでしょうか。

 

 「大倭の傑豪」をすぐに思いついた人がいました。平田さんです。天武崩御に際して、殯宮で誄しのびことたてまつった人々ではないかとの推察でした。「シノビコトは死者を慕って、その霊に向って述べることば。殯宮における主要な儀礼の一つであった。」と日本古典文学大系の日本書紀第二十の頭注にあります。「大倭の傑豪」らしき人々を列挙しましょう。

 大海宿禰アラ蒲(九州)

 県犬養宿禰大伴(出雲)

 河内王(筑紫)

当麻真人国見(但馬?)

采女朝臣竺羅(筑紫物部)

紀朝臣真人(九州)

布勢朝臣御主人(九州?)

石上朝臣麻呂(筑紫物部)

大三輪朝臣高市麻呂(長門?)

大伴宿禰安麻呂(九州)

藤原朝臣大嶋(九州)

阿倍久努朝臣麻呂(九州?)

紀朝臣弓張(九州)

穂積朝臣蟲麻呂(筑紫物部)

( )内の出自は福永の推測、原案は平田氏。

 

最も明らかなことは、彼等が「美濃の軍将等」では決してないことです。これほど簡単明瞭な事実が看過されていました。この簡明な事実が古代史に名高い壬申の乱の本質を語り始めたのです。いや、本来、既に語られていたのです。

大海人皇子(天武天皇)は、九州から「大倭の傑豪」を率いてきたのですから、すなわち「大倭王」の格で近江朝を簒奪したのです。乱後、飛鳥に都を置いたからこそ、この地が「大倭」と呼ばれたことは、想像に難くありません。後世、「大和」と表記され、「ヤマト」と呼ばれたのは、周知の事実でしょう。

あの神武の東征が、弥生期の歴史事実の反映なら、壬申の乱すなわち「天武の東征」こそ紛れも無き歴史事実と断定せざるを得ません。天孫降臨の歴史は繰り返されたのです。

こうして、東国に成立した倭国が日本国と改称し、倭国本朝(九州王朝)をも併合していったとすると、『旧唐書』『新唐書』の日本国伝の矛盾した記述もある程度理解ができるのではないでしょうか。

終りに、今、「天満倭考」を執筆中ですが、「倭」には「やまと」の訓しかなく、そこはもとより、北九州の地に他ならないことを明言します。

三人寄れば文殊の知恵。学習会は、参加者自身も思いも寄らない次元へと進んでいます。

次回、八月二十四日(土)

堀留町区民館です。

 

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神功皇后紀を読む会

 

立川市 福永晋三

 教室にちょっとしたブームが起きました。電子辞書の活用です。藤沢さんがもたらしました。広辞苑・漢字源・ジーニアス英和等が完全収録されたものです。

 契機は、羽白熊の名からです

 

鷲と鷹

筆者が、飯岡さんと熊稲荷を下関の亀山八幡から探しました。この熊鷹にこだわるうちに、シ たかという字があるが何か関係しないかと提案されたのです。青天の霹靂でした。なんと「」の書き換え(あるいは誤写)というテーマに発展し、万葉集のニギタツ歌と繋がったのです。筆者には、奇跡が起きた思いでした。万葉集の原文は、「田津」とあり、これを通常は「田津」と表記するのです。福岡県鞍手町新北説を唱える筆者には誠に有難い啓示でした。そこが「田」物部の故地だったからです。古辞書に、の義とありますから、二字共に「にぎ」と読むべきでした。さらに、この地の隣の宮田町には、筆者が初詣を繰り返した、物部氏の祖速日にぎはやひを祀る天照宮があるのです。

饒=贄=という一連の漢字に共通する訓「にぎ」が、ほとんど同一の地点を指し示したわけです。

熊鷹へのこだわりが実を結んだと思われてなりません。

 

ハグマとシャグマ

次に、出てきたのが、白熊はぐまです。

は‐ぐま【白熊】ヤクの尾の毛。中国から渡来し、黒いのを黒熊こぐま、赤く染めたのを赤熊しゃぐまという。払子ほっすに作り、また、旗・槍・兜などの装飾用。

ハグマはもちろん白です。白熊と書いてハグマ。やはり羽白熊鷹がルーツと思われるのです。二つの美奈宜神社の祭りに残されていました。

まず、三奈宜くんち(十月二十二日)。寺内地区の美奈宜神社の秋の大祭。


 


 

総勢二〇〇名に及ぶ神幸行列の一齣です。秋の稲穂の中を大名行列さながらに練り歩く、と甘木市観光パンフにあります。この先頭をゆくのが「はぐま(毛槍)四組」なのです。ほかに、獅子三対、鬼八匹、神輿(高御座を思わせる独特のもの)など、珍しい構成が目立ちます。福永流に申せば、邪馬壱国最後の王、羽白熊鷹の行列の名残かも知れません。

次が、蜷城ひなしろくんち(十月二十一日)。福岡県指定無形民俗文化財になっています。蜷城地区の美奈宜神社の秋の大祭。


 


 

長田・鵜ノ木地区から奉納される獅子舞は、それぞれ雌雄一対の獅子で構成されています。獅子は胴体をシュロ(棕櫚)で編み、獅子の役の脚絆にもシュロが用いられています。この系統の獅子は筑後川中流の両岸各地に伝承され、その面影を残した「蜷城の獅子舞」として有名です。

このシュロを通じて、久留米市大善寺玉垂宮の鬼夜に繋がりました。

 写真は、鬼夜の主役の鬼を務める子供が被るものです。藤沢さんが昼間に借りて被ったところです。この鬼(鬼面尊神と思われます)が、実はシャグマ(赫熊)と呼ばれる警護役の子供らに囲まれて、闇の中を、鬼堂を巡ったり、禊をしたりするのです。

 


 


 

 筑後地方には、ハグマとシャグマが対で残されていると言っても過言ではないでしょう。(なお、佐賀県三田川町吉野ヶ里遺跡の近くに、赤熊太鼓の祭りが残されています。)

 古典芸能の「連獅子」を思い浮かべてください。あれこそ、白熊と赤熊の揃い踏みのようです。その被り物と雌雄?一対の獅子という構成は、筑後地方の伝統の粋と言えるのではないでしょうか。

 幕末の薩摩軍の隊長クラスの被ったのが、赤熊、江戸時代の大名行列の毛槍が、白熊。武家は、古代の倭国の伝統や格式を継承したのではないでしょうか。

 

?国新説

 

 お次は、東?国問題に触れます。平田さん・飯岡さんと天の橋立を訪れたとき、福永が素っ頓狂な声を発しました。「ここが東?国だよ。天の橋立は、天(国)の端建ての意だよ。」古代丹波を調査し続けてきた平田さんがすぐに反応してくれました。「有り得る」と。宮津は「魚の町」がキャッチフレーズ。このアイデアを温めつづけて、「?テイしこ」の音訓に辿り着きました。シコイワシを中国に献上した人々かと考えました。丹波には畳いわしが売られていました。はるか昔に秦の徐福が来た所、三国時代に呉の兵が来て三角縁神獣鏡の作られた所(藤田友治さんの説)、浦島太郎の伝承地、すこしずつ確かな手ごたえを感じつつあります。今号に飯岡さんの詳しい記事があると思います。

 

クヒの神

 

対馬の旅の経験と皆さんの智恵と電子辞書との三者が合わさって、稲の神様を見つけたようです。

 六月六日の昼過ぎ、島大国魂御子神社にお参りしました。素盞男すさのお尊の御子大巳貴おおなむち命をおまつりするお宮と解説があった。拝殿に上がったら、筆者の脳裏に混乱が生じました。原因はこの神社の次の神紋です。


 

白鶴の紋。昨夏、鹿毛馬かけのうま神籠石に関わる神を探しに、福岡県鞍手郡小竹町の亀山神社を訪れたとき、そこの神紋が同じ白鶴でした。この神社の祭神が、大歳おおとし神、神社は大歳社でもあるのです。島大国魂御子神社の神紋が白鶴なら、祭神は大歳のはずだが。大年の神は須佐男命の子である。大年の神の子が大国御霊の神である。ここ島大国魂御子神社の社名と祭神とは支離滅裂の感がするのです。

多元の会が、『日本の神々 神社と聖地1九州 谷川健一編』の対馬の部分をコピーして用意していてくれました。読み直して、大歳神に再会しました。

 今回、バスが入れずに行けなかった、伊奈久比神社の社伝にこうあります。

「上古、八幡尊神を伊豆山に祭る時、大空に奇しき声あり、仰ぎ見れば白鶴稲穂を銜くわえ来り、これを沢の辺に落し、たちまち大歳神となる。その霊を祭りて稲作神となし、新に田を開きて落穂を植え、神饌を得てこれを祭る。これ本州(対馬)稲作の始めにして、伊奈の地名は稲に由来す。(後略)」

 この後に、イナクヒの考証があり、「イナは稲にちがいないとして、クヒの解釈には通説がない」とある。

クヒは何でしょうかと教室で問い掛けたら、福永伸子が切り出した。「倭建命の歌に、『ひさかたの 天の香山 利鎌とかまに さ渡る鵠くひ…』があるよ。」

平田さんいわく、「くぐひ(鵠)と同じだ。」

 

くぐい【鵠】クグヒ

(ククヒとも)ハクチョウの古称。

 ここまできて、終にクヒの神が稲を伝えた神であり、具体的には大歳神という出雲系の神であるらしいことが分ってきました。また、倭建命が白鳥と化したことや、豊後の朝日長者の餅的伝説など、いわゆる『白鳥伝説』の意味も解けそうです。詳細は別の機会に述べます。

 

天の香具山考

 

右の倭建命の歌について、教室で気づかなかった重大なことを急ぎ、述べたいと思います。

 ひさかたの 天の香山かぐやま 

利鎌とかまに さ渡る鵠くひ、

 弱細ひはほそ 手弱腕たわやかひなを

 枕まかむとは 吾はすれど、

 さ寝むとは 吾は思へど、

 汝なが著けせる 襲おすひの

襴すそに 月立ちにけり。 

クヒにクビ(首)が掛けてあったために見過ごされてきた、重要な修飾語があったのです。

「ひさかたの 天の香山かぐやま 利鎌とかまに さ渡る鵠くひ」の利鎌にとは、鋭い鎌のような細く美しいクヒの首のような(女性の細腕)という形容だったのである。そのクヒがどこの空を渡っているか。ひさかたの天の香山の空なのである。その実景描写から女性の美しい腕の修飾に使われているのである。倭建命は、天の香具山とそこを渡るクヒと美夜受比売の腕とを見ているのである。

それでは、天の香具山とはどこの山か。多元史観の人々なら、ご存知のはず、別府の「鶴見岳」である。そう、この歌を詠んだ倭建命という実在の(豊の)王者が、香具山を渡るクヒ、すなわち、あの白鳥・白た故事から、「鶴見岳」の別名が生じたのではないか。それを別府の人々は、何代にもわたって、この故事に因んだゆかしい山名を正しく伝えてきたのであろう。ただ、感嘆。

美夜受比売も九州にいた。福永は、すでに筑豊の地から、美夜受比売と倭建命とを探し出しているのです。

 

再び羽白熊鷹

 

対馬のイナクヒの神と同じ土地に能理刀の神がまし、やはり、鳥の姿と化して稲をもたらしたとあります。『対州神社誌』、

熊野権現。神躰は唐金のくま鷹の由。

驚きです。熊鷹が三度出現しました。しかも、稲の神様です。筆者は、飯岡さんのおかげで下関の亀山八幡から摂社の「熊鷹稲荷」を見つけたのでした。対馬と下関に稲の神様としての熊鷹を見出すことになりました。今後、どんな展開が現れるのか。嬉しくもあり、恐ろしくもあり。

それでも学習会は続くのです。

 次回、八月十日(土)

    杉並産業商工会館

 

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【お知らせ】

下記の旅行が企画されていますのでご案内申し上げます。参加を希望される方は事務局・高木までお申し出下さい。

1.1.  吉備史跡巡りの旅

日 時:9月13(金)〜15日(日)

見学地:吉備津彦神社、吉備津神社

盾築遺跡、鯉喰神社、作山古墳、鬼ヶ城、総社宮、こうもり塚古墳、備中国分寺、宮山古墳群、造山古墳、吉備路郷土館、岡山県立博物館

宿 泊:ホテルチサン岡山

(シングル)2泊

移 動:小型貸切バス

又はレンタカー

朝食2食付き

参加費用:三万九千円

 

2.2.  古田武彦氏と行く山東省史跡巡りの旅(多元の会と共催)

日 時:未定10月中旬〜11月中    旬(五泊六日)

見学地:瑯揶台、沂南画像石墓、銀雀山、金雀山漢墓群、漢墓竹簡博物館、徐州博物館、漢画像石芸術館、前漢楚王劉戊墓、武氏墓群石刻、孔子廟、孔林・魯国故城遺跡、山東省博物館、千仏崖造像

    その他

参加費用:未定

 

3.3.  古田武彦氏と行く大善寺「鬼夜」

を見に行く旅

日 時:平成15年1月7(火)〜8日(水)

参加費用:未定

 

鬼夜の由来に関して「薬師寺旧記」に、

仁徳天皇五十四年肥前の国桃桜沈輪発起し異国へ内通し、悪徒を集め諸所乱妨の旨、百姓等濫訴に及び、これに依り葦連(大善寺勾当職吉山氏の祖)奏聞し奉り、同帝五十五年卯十二月勅命に随ひ、藤大臣難波高津宮を出て、同年同月二十四日筑後塚崎葦連館へ御下着在す。(中略)大臣秘計をめぐらし、同帝五十六年正月七日類族遺らず退治し給う。夜に入りて沈輪行衛しれず、大臣四方に命じ大池を囲み、棒を以ってその岸を松明を照らし、鉾を以って水中を探り、逃げる処なく棒を奪い取り、葦連目当打って懸かる、用意の刃を抜いて沈輪が首を打ち落とし給う。その首虚空に舞い上がる。大臣、八目矢を以って射落とし、茅を集め焼き給う。是れ鬼夜の始と云う。

日本三大火祭りの一つに数えられる鬼夜ですが、言い伝えられた伝承は古代史の闇を私達に語りかけているようです。創祀一九〇〇年を迎えた大善寺、その歴史にも驚きますが、九州年号「端正」や太宰府管内誌からの記述『天皇屋敷』、『桃桜沈輪』等を含めて伝承されている鬼夜を是非ご覧下さい。詳しく鬼夜を語ることはしませんが、どうぞご一見後ご自身にて謎の解明に一石を投じて下さい。又、ご参加をお考えの皆様におかれましては鬼夜見学以外の時間を利用した希望見学地をお知らせ下さい。時間の許す限り、ご希望地を

巡りたいと思います。

 

会長コーナー

藤沢 徹

 六月三十日全逓会館での古田先生の講演会は二百人ほどの参加者でたいへん盛り上がりました。引き続いての総会も活発な議論で賑わいました。会員の皆様の寄付により累積赤字解消の報告がなされ、会の運営、特に財政に関し、透明かつ公正な手法の確立にむけるべく質疑が行われました。

 東京古田会は会費収入でニュース発行などの運営がされています。今年度会費納入が未だお済でない方はぜひ早急にお願いします。

 現在会員数は三百名弱ですが、高年齢化に伴い毎年十人ぐらいの退会者がでています。一方、それ以上の入会者をいただいていますが、もっと四十代の若い人に入ってもらって会員を増加させたいと願っています。お知り合いの方に声をかけて入会をお勧めください。

 「新・古代学第六集」が発刊されました。古田武彦先生の書き下ろし論考「神武古道」の力作が掲載されています。「九州王朝の多元的考察」と題したように十一名の論者から九州王朝の成立過程など、群盲撫象的アプローチを奔放に試みています。ぜひ、ご意見を当会までお寄せください。

 東京古田会は今回で「新・古代学」の責任編集を降りて、その仕事を友好団体に譲ります。ご声援ご協力有難うございました。

 このニュースの内容について、最近面白くなったねとのご好評をいただいています。特定の論者に偏らないよう広く会員のご意見を載せたいと思います。民俗の勉強などとてもよく研究されていても、書くのはどうもと躊躇されている方、そう、あなたです。ぜひ書いてください。パソコン・ワープロはどうもという方には編集部がご相談に応じます。

 勉強会は杉並・堀留とも別掲ご案内の通りです。出席者同士意見を活発に出し合い、たいへん盛況で面白いです。最初はみなよく知っているなと思うかも知れませんが、どうせ五十歩百歩です。堂々とご意見を開陳してください。主旨にご賛同なら大歓迎です。

 大善寺玉垂宮の鬼夜見学ツアーを来年早々企画しています。まだあまり報告されていませんが、お祭りの鐘のリズムはバリ島のガムラン音楽そっくりです。一度現地を訪れるか、CDで音楽を聴いておいてください。どうして似ているのか仮説を作って教えてください。

 

事務局だより

高木 博

古田武彦氏の最新刊『「姥捨て伝説」はなかった』が新風書房から7月30日に発刊予定です。

内容は「序に代えて」として上岡龍太郎氏と古田武彦氏の対談を掲載して、第一章にて「姥捨て」伝説の真相の論証に及び、第二章にてはかみ@lだけが神様じゃない、ち@lもけ@lも神様だった、第三章はイザナギ・イザナミは鯨の神さん≠セった、「あとがきに代えて」にて、再び上岡龍太郎氏と古田武彦氏の対談が掲載されている。

非常に読み易い出来上がりです。是非ご一読下さい。

 

連絡先:新風書房〒543-0021大阪府天王寺区東高津町5―17電話06-6768-4500

定価:945円(消費税込み)

 

上記新刊の冒頭の対談において上岡龍太郎氏の言葉の中に、今後の活動の指針になるであろうと思われる発言があるのでご紹介いたします。

古田先生のご本の中に書かれていることですがAとBとが論争したとする。最終的にAの説が正しかったとすると、「Aが勝ってBが負けた」と世間の人は言うんですが、そうではないんですよね。そうではなくて「AとBとが論争した結果、導き出された結論は二人の勝利なのだ」と。この視点が日本人にはまったく欠けている。(以下略)

『対馬・壱岐の旅』は照日(天童)信仰の究明と言う大きな課題を抱え込みました。今後の調査・論証が楽しみです。

飯岡氏の課題神話神名『シコオ』と対馬北部『志古』地名と「志古神社」の調査も継続中。天皇名の日本根子(ヤマトネコ)の根子は阿蘇山中央噴火丘の根子岳の名前と関連があるのでは?

株式会社トラベル・ロードのご協カのもと古代史探訪ツアーを企画しております。今年度後半9月には吉備古代史探訪ツアーを予定、10月11月中国山東省史跡探紡ツァー(古田先生同行予定、多元的古代研究会・関東との共催企画)、年内北対馬『志古』を訪ねてツアー予定、一月七日には大善寺玉垂宮の『鬼夜』を見に行く旅(古田先生同行予定、当会の主催企画ですが、出来ますれば、多元的古代研究会・関東、古田史学の会、市民古代史の会・青森、古田史学の会・まつもと等)各会の御協力をいただき、成功させたいと思っています。

追伸:会員の皆様へ、

会負による入会希望者1名様の御紹介を事務局よりお願いします。

会報作成・研究誌作成協力者、事務局活動の協力者、勉強会への参加者、調査旅行等への参加者を募集いたします。ご連絡は事務局高木又はHP迄

 

編集後記

 

飯岡 由紀雄

 今号もやっと編集後記に辿り着くことができました。

7月20日からの「筑紫舞い」見学ツアーに参加するため、高木さんと福永君を始め、古田先生の講演録作成、教室便りなどの「締め切り」厳守をお願いし、自分もその一人であることに気付き、六月下旬のまだ涼しかった頃に約束してしまったゴルフ帰りの体に鞭打ち、やっとの思いで講演録を仕上げ、投稿記事に目を通し、活動報告、会計報告などの会報掲載を考えると30ページにもならんかという量。幹事連の「飯岡さん、作成費、郵便代のことも考えてる?」という声が耳に響いて来てしまいました。全原稿を今号に掲載出来ませんでした。投稿頂いた会員の皆様、ゴメンナサイ。次号から掲載してゆきますので、ご容赦のほど。

面白い話。古田先生の話は勿論、鈴木さんの佐護の話から福永教室での会員・福田さんや藤沢会長の話に端を発した「クヒ」、「ハグマ・シャグマ」、これは今では歌舞伎くらいしか目にしませんが、子供の頃の東映時代劇映画ではよく見ました。何よりも幕末の戊辰戦争の官軍指揮官の被り物、どうしてあんなものを被っていたのか分かりませんでしたが、熊襲・羽白熊鷹まで遡れるとは…。それが現地で、理由は分からんがエライ物として伝承されて、イザと言う時にちゃ〜んと出てくる。これは驚きです。もう一つ驚いているのは「邪馬台国」、「邪馬壱国」の国名がヤマ+(プラス)タイ、ヤマ+イチ(あるいはイツ)の複合国名であるという確信に近い可能性が出て来たことです。二国連合を「核」とした三十国の連合国家。その「ヤマ(山?)」がどこであるのかは無論その「ヤマ」を護ったものが神籠石?。で、最初の「ヤマ」は何処なのでしょうか。

本当に暑くなりました。会員の皆様におかれましては、くれぐれもご自愛ください。そして古田会ニュースご愛読の程、お願い申し上げます。

 

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平成13年度活動報告

       古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)

 

1、東京古田会創立20周年記念行事完遂

『「邪馬台国」はなかった』発刊30周年記念行事記念講演会

10月5日(金)古田武彦講演会

於:外人記者クラブ

演題「原理主義―天星家に先立つ九州王朝」

10月8日(月・祝日)

於:浜離宮朝日ホール祝賀講演

古田史学の誕生と未来                古賀達也氏

史料解読方法の画期          谷本 茂氏

対談:『「邪馬台国」はなかった』誕生前夜

西村俊一氏・古田武彦氏

記念講演

東方の史料批判―中国と日本

古田武彦氏

10月8日午後5時半より懇親パーティー 於:新阪急ホテル

10月9日(火)追加特別講演会

於:全逓会館            古田武彦氏

主催:「多元的」古代研究会・関東、古田史学の会、古田武彦と古代史を研究する会

協賛:市民古代史の会青森、古代史学の会・まつもと

特別協賛:(株)アイ・シィ・イー

後援:朝日新聞杜

 

2、古田武彦講演会

5月27日(日)於:東京女学館講堂

演題「歴史の情報批判」

 

3、研究旅行実施

11月9目〜11日「丹波・丹後・若狭」古田先生同行

平成14年2月5日〜7日「神武の来た道」多元・関東と共催

3月3日 霞ヶ浦の舟塚山古墳・X印円筒埴輪見学他

 

4、東京古田会ニュース隔月発行済平成13年4月79号〜平成14年3月84号。

82号より編集者交代、コンピュータ編集採用

 

5、新・古代学第5集貢任編集担当。編集方針・原稿選択基準を決定。透明・公正に原稿を採用。

3月20日新泉杜から発刊・割引販売実施。

続いて第6集責任編集担当、同じ編集方針で原稿を募集した。

 

6、ホームページ強化

アクセス7000件を超え、インターネット経由入会者増加

 

7、勉強会

月2回実施

@「改新の詔を読む会」日本書紀(下)天武紀を徹底的に読む、研究発表も

於中央区堀留町区民館

毎月第4土曜日午後1時半より

A「神功紀を読む会」

神社伝承・文献分析等 

於杉並区産業商工会館

毎月第2上曜午後1時より      

 

8、財政再建

10月末会計担当交代。新財務担当・経理担当任命により財政再建を図り、会員から寄付を募った結果、累積赤字を解消した。決算の表示方法を財務諸表方式に変えた。

 

平成14年度活動方針

基本方針

会員の研究を援助しつつ、古田説の発展を期し積極的に活動を拡大する。

一方、財政健全化を図る。

 

1、                                                                                                                                1、                            新・古代学第6集責任編集発刊

(新泉社)

@ 編集委員会メンバー

委員長 藤沢徹

主 幹 福永晋三

委 員:飯岡由紀雄、篠崎俊、平田博義、平松幸一、吉田堯躬

A 原稿選択基準

(1)古田史学の発展につながるもの

(2)試論の組立てが主観的でなく、論証・理論が充分成立するもの

(3)今後の発展に興味があるもの

(4)史・資料として価値があるもの

透明・公正に検討し、一部書き直しを要求し、原稿採用を決定した。

 

2、古田武彦講演会

6月30日(日)午後1時半開演

 水道橋 全逓会館

同日午後6時30分

於文京シビックセンター2F

 

3、研究旅行

5月19日(日)

「上総国古代史探訪」

平成15年1月7目(火)

久留米大善寺玉垂宮『鬼夜』見学と磐井の遺跡探訪

その他、旅行社「トラベルロード」と提携した古代史探訪ツアー、

多元的古代史研究会・関東との共催の旅行など

 

4、東京古田会ニュース 隔月発行

コンピューター編集による合理化推進

会員の原稿募集(ワード使用、フロッピーまたはメールにて)

 

5、ホーム・ページの充実強化

 

6、勉強会

月2回

@「改新の詔を読む会」

日本書紀(下)持統紀を読む会

研究発表実施予定

於 中央区堀留町区民館、

毎月第4土曜日 午後1時半から3時間

A「神功紀を読む会」

於 原則 杉並産業商工会館 毎月第2土曜日午後1時から4時間

 

7、論文集発行計画

「新・古代学第5、6集」編集で得たノウハウを基に東京古田会としての古代史研究結果を発表

 

東京古田会2001年度会計報告

損益計算書                   貸借対称表

(自01年4月1日至02年3月31日)        (02年3月31日現在)

費用の部        収入の部           資産の部                      負債の部

新聞制作費 441,883 会費収入   676,000     現金             567,526   借入金    311,670

通信費   221,982  勉強会参加費72,900   小口現金              74,557   前受け金  790,000

講演会諸費 243,025 寄付金       47,500        仮払い             78,225 負債合計    1,101,670

懇談会諸費  46,365 講演会収入  486,500        小計              720,308

交通費   136,501 懇談会収入   84,000     累積欠損金        494,425

広報費     145,020 雑収入       74,739     当期剰余金        113,063

消耗品費    26,242   収入合計 1,441,639        次期繰越欠損金    381,362

会合諸費    10,940                               資産合計        1,101,670  

勉強会費    40,350              注:前受金は02年度3月末までの受取分¥514,000および

雑費        16,269                会費と同時の寄付金¥276,000である。

小計     1,328,576     <01年度会計監査報告>

当期剰余金 113,063     1、提出された資料・帳簿を精査した結果、誤りないと認める。

費用合計 1,441,639     2、決算の表示方法が財務諸表方式に変換されたことは前進である。

3、従来表面化していなかった年度末の赤字が示され、前年度中に収納された02年度分の会費収入を前受け金として

  処理したことは、実質赤字の処理への一里塚である。

4、寄付金を仰いだことにより、次年度末には赤字解消の期待ができる。

 

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